Social Worker's Note

社会福祉士です。現場で感じたことや考えたことを発信します。

書評#01

eureka742007-01-15

三者の絶対性  芹沢俊介2006『《宮崎勤》を探して』雲母書房

増殖する「宮崎勤的なるもの」
 この本は、《宮崎勤》問題に対する著者のこれまでの発言が時系列に沿ってまとめられたものである。巻末にある初出一覧を見ると、最初の記事が1989年4月だから、著者は、宮崎勤が逮捕される(逮捕されたのが1989年8月7日である)前から、この問題に取り組んでいたと言ってもいいだろう。そして、現段階で書き下ろされた文章も収録されており、およそ17年にわたる時間を経て我々の手元に届けられている。
 この本の結びの文章は「「宮崎勤的なるもの」は生きている。それも力強く増殖しては今後も増殖して。」(290ページ)である。この不気味な予言と、この17年の間に起こった数々の同根の事件(加害者・タクママモル・コバヤシカオル・サカキバラセイト)を思い出せばこの予言は一層の現実性を帯びることになる。おそらくこれからも同根の事件は残念ながら繰り返されてしまうだろう。そんな現実のなかで、この本はひとつの問題を徹底的に考え抜いていくことが他の問題を解いてゆくときの貴重な力になることを教えてくれる。
 一読者である私にとっては《宮崎勤》問題を、現在センセーショナルに話題にされている児童虐待問題とリンクさせた。自らの存在が肯定されなかった彼らは、被虐待児だったのであり、加害者である前に被害者でもあったのだ。加害者の「異常」性がひたすら煽られていたけれども、彼らもまた子ども時代を確実に生きており、いまでいえば「被虐待児」と呼ばれるような境遇にあったことが広く知られることもなく、彼らの命や判決とともに葬りされてしまう。

宮崎勤君」という呼称
 本著において違和感を覚える表現がある。それは宮崎勤という個人名に「君」が付けられていることである。「猟奇的な殺人者」である人物に「君」という親しみを抱かせるような言葉が付け加えられている。それは、読者一人一人に身近な存在として自覚させるような1つの表現ではないだろうか。ではなぜ身近な存在として自覚させねばならないのか。それは17年という時間が経っても何も変わっていないからである。何が変わっていなのか。自分たちの問題として考えることを放棄することである。《宮崎勤》問題を自分のそばに置いて考えるために「君」という呼称を用いているのではないか。

最近の青少年犯罪に特有な現象に触れておこう。それは、事件に対し間接的な場所にしかいない人たちが、直接の当事者以上に、犯人に対し凶暴な感情をむき出しにしていることである。間接的であるものが直接的であるものを上回って過剰に反応するという現象は、出来事に対しさしむける言葉を見失っているということを物語っている。私にはそのことが、社会に対するねばり強い分析・批判を放棄したことの証拠のように思えてならない。(26ページ)

 このような状況に抵抗するかのように著者は《宮崎勤》問題に取り組んできた。その著者が訴えようとしているもうひとつの主題がここにあるように思える。問題を評論してみせるだけでなく、問題を考え尽くすことによって他者と問題を共有していくこと。そういう力をこの本は宿している。

宮崎勤》問題と私
 著者が立っている地点を〈絶対的第三者〉の位置と呼んでみたい。裁判における裁判官や検察官や精神科医の立場を〈相対的第三者〉と位置と呼べば分かりやすいかもしれない。著者は、裁判を傍聴するなかで、裁判のなかで明らかにされている事実や精神医学的な解釈に興味を示さない。それは、被疑者を罰することが目的であるからである(別にそれは悪いことではない。それがかれらの仕事である)。しかし著者の立場はちがう。それは、同じ時代や社会を生きて、同じように家族を営んできたものが、どうしてあのような悲惨な事件を起こさざるをえなかったのか。事件が起こったことを何かの目的のためではなく、事件そのものとして解明しようとする立場である。

 悲惨な事件であればあるほど被疑者を精神の病気や刑事的に罰するためだけに性急に事実を整理し問題を解決しようとする。そして、専門家と呼ばれる人々に判断を預けて問題を解決しようとする。そして問題はあたかも解決したように思い込む。しかし、何も解決はしていない。だから同根の事件は繰り返される。
この本を読んでいくと、私たちはいかに自分たちの問題として考えることを放棄し、加害者への刑罰や加害者・被害者への治療を望んでいるだけではないかという内省を抱かされる。
 よってこの本は、自分の問題として考え続けた1つの記録として読まれるべきだろう。被害者に同情するのではなく、加害者を攻撃したり、権利を擁護したりするでもなく、その事件がどうして悲惨な形で生まれねばならなったのか。それを考えつくすことが悲惨な事件を防止するための近道であることをこの本は教えてくれる。急がば回れである。