Social Worker's Note

社会福祉士です。現場で感じたことや考えたことを発信します。

『夢がもてない』を批判するー里親委託はなぜ増えないのか

はじめに

 本論では、NGO団体HUMAN RIGHT WATCH(以下、「HRW」)が2014年に発行したレポート『夢がもてない』を批判する。HRWは、国際的なNGOであり、世界各国で人権が守られているのかを監視し、人権が守られていない事実を社会へ問うことをミッションとしている。そのNGO団体が日本の社会的養護の現状に焦点を当て、その問題を取り上げたのが、『夢がもてない』というレポートである。このレポートは、インターネットからもダウンロードをすることができるようになっており、簡単に手に入れることができる。

 一方、著者は、児童相談所児童福祉司として勤務している現場の実務者であり、過去には児童養護施設で児童指導員として勤務していた経歴がある。実務者の立場から、このレポートを読み、強烈な違和感を覚えた。そのことが本論を書かせるモチベーションになっている。しかし、このレポートを感情的に否定しても仕方ないし、『夢がもてない』に代表されるような現状の社会的養護批判に対して、実践の立場からきちんと批判を加えておくことは、日本の社会的養護の現状を生産的に議論するための必要な手続きだと考えた。本論は、主に言説批判という形式で書かれるが、実質的に述べられるのは、社会的養護についての児童相談所側からの実践報告である。本論は結果的には、児童福祉領域において里親委託はなぜ増えないのかについての一つの回答になるはずである。

 なお、本論の引用について、特に指示のないものについては、『夢がもてない』からの引用である。それ以外の引用については、引用先を明記する。

 

1.『夢がもてない』の概要

 『夢がもてない』は、日本の社会的養護の現状がいかにそこで暮らす子どもたちの人権を無視しているのかを伝えている。里親委託率の低さと児童養護施設への措置の多さを特に問題だと指摘している。

 

 社会的養護下の子どもたちの大半(85%)は施設に住んでいる。約3万4千人(2013年)の子どもたちが施設で生活をしている。そのほかの子どもたちは里親宅、あるいは、ファミリーホームで(1軒の家で5〜6人の子どもを養育する形態の社会的養護)で生活している。社会的養護制度の下で生活する子どもたちのうち、最終的に養子縁組されるのは303人(2011年)とかなり少数である。児童養護施設の平均在所期間は約5年である。日本における施設収容率は、他の先進国と比べると際立って高い。(2ページ)

 

 これは数値的・客観的な事実である。『夢がもてない』はこの現状が子どもたちへの虐待であると明言する。

 

 より大局的に視点から言えば、施設での養護そのものが虐待といえるかもしれない。家庭での養育の機会を子どもから奪っているからである。家庭で育つことが子どもの発達と福祉にとっていかに重要であるかは多くの研究の示すところである。(3ページ)

 

 そして、最終的には、施設廃止という極端な提言に至る。これらの主張は、あまりにも過激であり、現場にいるものとしては到底同意することができないものである。

 このレポートのポイントは、日本の社会的養護の現状を、先進諸外国のようにするべきだというところにある。そのこと自体は、間違っていないし、現場にいる者としても、いまの制度やシステムがベストだと思わない。しかし、『夢がもてない』が未来のビジョンを描くために、現状のシステム下で懸命に働く人たちは完全に否定される。施設で働いているとあたかも虐待に加担されているように評価される。施設で日々の生活をしている子どもたちも被虐待児なのだという。こういうメッセージは社会的な関心を集めるためには必要なのかもしれない。しかし、そのことにより、その現場で格闘している実務者たちを否定し、切り捨てることになっていないだろうか。そして、現場との連携や協同への道を閉ざしていないだろうか。

 『夢がもてない』は、統計的なデータと、実務者や研究者へのインタビューを交えて、現状を客観的に伝えることには成功をしている。しかし、その現状分析や改善点については扇情的かつ非現実的である。以下では、特にその現状分析が間違っていることを説明する。そして、現場の実務者と外部からの協力者たちが協同することで、現状を改善していかねばならないことを指摘する。

 

2.児童福祉施設批判の言説の活性化

 乳児院児童養護施設などの児童福祉施設を批判する言説は『夢がもてない』だけではない。ここ最近このような言説が活発である。たとえば、島津[2013]もまた日本の児童養護施設が、劣悪かつ閉鎖的な環境であるかを自身のフィールドワークの結果を踏まえて論じている。また、中東の衛生テレビ局アルジャジーラがインターネット上に『Japan’s throwaway children(日本の見捨てられた子どもたち)[2015]というセンセーショナルな題名の付いた取材報告をアップしている。この取材報告には、親が育てられない子どもに家庭を!里親連絡会という団体が関与している。映像を確認すると、施設側の立場も踏まえられており、バランス感の作品になっているが、これもまた施設批判の一群に位置付けることができる。さらに、矢満田・萬屋[2015]は、児童相談所の内部で特別養子縁組里親を積極的に推進し、愛知方式という名称を全国的に知らしめた実践を報告している。ここでも、里親委託が乳児院児童養護施設よりも子どもにとって適切であるかを論じられている。この実践それ自体については、素晴らしいものであり、それ自体を批判したいわけではない。ここで問題にしたいのは、里親推進を語るために、なぜ乳児院児童養護施設が貶められなくてはならないのかということである。その里親推進言説の不適切さを問題にしたいのである。これらの乳児院児童養護施設を否定する言説群のなかで、『夢がもてない』は典型的かつ挑発的なテキストであり、このテキストをきちんと批判することは、この言説群に歯止めをかけることになることにもつながる。次章では『夢がもてない』の主張を具体的に検証していく。

 

3.『夢がもてない』の現状分析

 ではなぜ里親委託が増えないのだろうか。『夢がもてない』が指摘する問題点を引用する。

 

第1には、現在の社会的養護の中心は施設養育とされており、そのような運用が長年続いてきたことがその理由である。児童相談所職員は現行の制度(児童福祉施設等)の運用・維持に多く時間と労力を割いてきた。結果として児童相談所職員は、里親委託を増やすことで施設側との関係を損なうことをしばしば躊躇する。施設は委託された子の人数を基礎に支給される措置費で運営されているのである。施設の小規模化や、ユニットの形式の導入などが施設優先の継続を正当化する理由とされることもある。

 

第2の理由は、里親への十分な支援と効果的なモニタリングがないことである。このため児童相談所職員は、里親制度が子どもの保護と支援を行う上で真に適切な選択肢であるとの確信をもてず、里親制度を完全に信頼することができない。里親による虐待発生時に責任を問われることを怖れ、子どもを既存の児童福祉施設に委託する児童相談所職員は多い。

 

第3の理由は、児童相談所の職員数の不足と専門性の欠如である。それにより職員には、施設に過度に依存する現状を変更することができないのが現状である。また、後に詳述する通り、児童相談所は実親の意見を優先する傾向があり、実親には子どもの利益よりも施設委託を優先する傾向がある。(43ページ)

 

 ここで指摘されている主たる問題点は、「前例踏襲」・「里親支援の不十分さ」・「職員数と専門性の不足」・「子どもの利益と親の利益」の4つである。『夢がもてない』では、これを裏付けるために、現場の声が引用されている。たとえば、乳児院の職員が次のように引用されている。

 

こちら(乳児院)から、里親希望ということで上げている子どもについても、児童相談所から両親の同意がとれない、と返事が返ってきてしまう。もっと児相には頑張ってほしいと思うことがあります。(46ページ)

 

 このような意見が上記の理由の根拠としていくつも引用されている。この意見一つ一つはリアルなものであり、たしかに実務者である私も言われたことのある意見である。しかし、これは児童相談所の外から見えている声であり、児童相談所の内側にいるものとしては、正確な指摘とは言いがたい。

 『夢がもてない』を読み進めていくと、児童相談所の職員をはじめとする実務者たちはいかに怠慢で不勉強で前例踏襲で保守的であると非難され続ける。外から見るとそういうふうに見えること自体は自由であるから、この批判を受け止めるけれども、実務者の側から反論の余地もあるはずである。

 

4.実務者の現状分析

 ここからは『夢がもてない』が指摘した4つの点について実務者として具体的に反論する。

4−1:「前例踏襲」

 第1の理由は「前例踏襲」である。児童相談所児童養護施設が、日本の児童福祉を維持してきたことは事実であり、そのことに「時間と労力を割いてきた」ことはその通りである。しかし「結果として、児童相談所は、里親委託を増やすことで施設側との関係を損なうことをしばしば躊躇する」というのは、完全に間違っている。児童福祉司として、一人一人の子どもにとって最善の福祉は何かを考えるのが児童福祉司の本務であり、施設側との関係を損なうために里親委託を抑えることは絶対にあり得ない。首都圏では、施設側は定員ぎりぎりの入所状態であり、児童相談所側は施設探しに苦労しているのが現状である。施設が見つからずに家庭へ戻すことを考えることもある。また、施設へ措置費を払うのは、いわゆる本庁の業務であり、その出先機関である児童相談所が直接支払うわけではない。措置費をめぐる児童相談所児童養護施設の利権の構図は当てはまらない。『夢はもてない』の著者である土井香苗が、別の媒体で受けた取材(週刊金曜日[2014:37])で語った下記の引用にある、「社会的養護ムラの論理」というのは、完全な事実誤認である。

 

最大の理由は多くの児童相談所が「施設に送るのが当たり前」という感覚になっているからだと思います。何十年もそれでやってきたので疑問すら感じなくなっているのだと思います。原発利権の原子力ムラがありますが、私はこれを「社会的養護ムラの論理」だと思っています。予算措置や経済効率を重視し、まずは施設を定員いっぱいにし、残ったら里親といった具合に、施設を児童相談所のなれあいの構造があるのではないでしょうか。

 

 こんな間違った現状分析をそのまま流布拡散させるわけにはいかない。

 さらに「施設の小規模化や、ユニット形式導入などが、施設優先の継続を正当化する理由とされる」という言明も、悪意に導かれた表現である。児童養護施設の職員たちは、子どもたちが少しでも落ち着いて生活できるように日夜格闘をしており、そのなかで施設の小規模化を訴え、実現させてきたのである。その営みを施設優先の継続のための正当化であると断罪するのは完全な間違いである。児童相談所と施設は既得権益を吸っているみたいな認識が根本的に間違っている。私は土井の言う「ムラ」の住人の一人であるが、児童福祉司が子どもを施設に入れることで、私の業績が上がるわけでもないし、施設に入所させたことで、施設から何か見返りをもらうことなどない。児童虐待問題が社会問題化する一時代前には、児童養護施設の定員が満たずに児童相談所に子どもたちを入所させてほしいという依頼があったという話を昔話として聞いたことはある。しかし、そんなことは遥か昔の昔話であり、現状はそんなことを言っていられる状況では断じてない。このような陰謀論的な認識(児童相談所児童養護施設は裏で甘い汁を吸っているはずという構図)は反論するのも不快なくらい間違っているが、間違っていると反論しない限り、まことしやかに流布されることは二次被害にも繋がるので、ここできちんと根拠のない誤謬であることを指摘しておく。

 

4−2:「里親支援の不十分さ」

 第2の理由は「里親への十分な支援と効果的なモニタリングがないこと」である。この言明は事実である。里親を一括りにすることはできずに、里親認定を受けている方々は、多様であり、里子との関係がうまくいく場合もあれば、不調となる場合もある。そのことへのモニタリングと里親へのケアが十分にできていないというのは指摘の通りである。ただし、「里親による虐待発生時に責任を問われることを怖れ、子どもを既存の児童養護施設に委託する児童相談所職員は多い」という記述は、またしても悪意を感じる言明である。児童養護施設に入所させても、そこで虐待は起こる可能性は十分にある。施設内で虐待が起これば、保護者に対しての説明をしなくてはならないのは、同じである。里親だけに該当することではない。上記の記述に「児童相談所職員は多い」とあるが、エビデンンスがわけではないだろう。少なくとも私は虐待の発生を恐れて、里親委託を躊躇するという認識はない。しかし、これはもしかすると私だけかもしれないから、エビデンスが欲しい。エビデンスがないのに一方的な決めつけは不愉快である。里親でも児童養護施設でも虐待は発生するのだ。

 

4−3:「職員数と専門性の不足」

 第3の理由は、「職員数の不足」と「専門性の欠如」である。職員数の不足については、実感と合っているが、ではどれくらいの人数がいれば適正なのかという議論もないのも現実である。また、児童福祉における専門性とは何かというのも定義がなされていない。実務者の感覚では、10年生き残れば独り立ちという雰囲気はあるが、専門性の中味はあまり吟味されていない。つまり、このことは総論としては正しいけれども、各論に入ると途端に議論が詰まってしまうのである。適正な職員配置はどの程度なのか、専門性とは何かについて具体的な議論が必要である。

 その後に続く「それにより職員には、施設に過度に依存する現状を変更できないのが現状である」という言明はまたしても飛躍し過ぎている。何をさして「過度に依存」というのか何を指しているのかが不明である。児童相談所児童養護施設が「ずるずるべったり」「ずぶずぶ」に関係であると言いたいのだろうと思うけれども、繰り返すが、そんな事実は存在しない。

 

4−4:「子どもの利益と親の利益」

 第4の理由は「子どもの利益と親の利益」についてである。次の文を改めて引用する。

 

 児童相談所は実親の意見を優先する傾向があり、実親には子どもの利益よりも施設委託を優先する傾向がある。(43ページ)

 

 これは児童相談所の援助の根幹にかかわる議論である。

 これは事実であるが、『夢がもてない』の文脈においてはこれがあたかも悪いことのように書かれている。しかし、児童相談所は実親と子どもの最善の利益のために相談関係を構築していくことがそのミッションであり、決して悪いことではない。児童相談所には様々な事情を抱えた保護者がやってきて相談をする。自ら相談にくる保護者もいれば、関係機関に連れられてやって来る保護者、虐待通告をされて児童相談所アウトリーチをして出会う保護者もいる。出会い方も本当にいろいろである。

 そこから、子どもや家族の話を丁寧に聴いていけば、その保護者が自分の子どもを考え、強い気持ちを抱いているのかを知ることができる。しかし、その表し方が極端だったり、不適切だったり、時に子どもを傷付けてしまうこともある。児童相談所はその保護者の思いを丁寧に汲み取りながら、不適切なかかわりについては指摘・指導しながら、保護者の思いが子どもたちの安心感に繋がるように家族全体に働きかけていくことが仕事になる。子どもの安心感を脅かす場合には、親子を会わせないという判断もあり得る。保護者の強い思いが適切に表現できるようになるまで、児童福祉所は、子どもの代わりに保護者とやりとりを続けていくのである。

 このやりとりの援助の延長線上に施設入所という援助が選ばれることもある。その時の保護者は断腸の思いで、入所についての承諾書に署名をする。そして、預けた多くの保護者は、預けた罪悪感から声高には語らない。多くの保護者はひっそりと子どものいない生活を続けながら、一緒に暮らせる日を意識しながら面会を重ねていくだけである。児童相談所は親子の面会交流の様子を把握しながらその親子がもう一度暮らすことができるのか、できないのかを見極めていくのである。

 つまり、子どもたちを施設や里親へ振り分けることが児童相談所の仕事ではないのである。ここが理解されていないから、「児童相談所は実親の意向を優先する傾向がある」というような表現が簡単に出てきてしまうのである。とても残念である。

 後半にある「実親には子どもの利益よりも施設委託を優先する傾向がある」という言明も残念な言明である。実親と呼ばれる人々は、それぞれの課題を抱えながらも、自分の子どもを思い、親子でありたいと、もがいていたり、諦めたりしているのだ。その不安の渦中にいる実親たちは迷いながら、施設入所に同意をしているのである(金井[2009])。いつかまた一緒に子どもを暮らすことを願いながら、実親と呼ばれる人々は存在している。実親と呼ばれる人々が考える子どもの利益とはそういうものである。このような実親と呼ばれる人々に対して「里親に預けたほうがいい」という児童相談所の提示は、実親への実親失格という烙印を押すことに近い。児童相談所は、実親に親失格という烙印を押すことが仕事ではなく、子どもと実親の最善の関係を構築することが仕事なのである。

 

5.「子どもの利益」は誰が決めるのか

 そもそも「子どもの利益」は誰が決めるのか。『夢がもてない』の論調は、里親委託がなされれば、里親との間に特定の愛着関係が結ばれ、子どもの利益が保障されると認識しているようであるが、子どもと実親とのつながりはどうなるのか。課題がありながらも、子どもとの関係を求める実親と子どもの関係をどのように構築するべきなのか。それを止めて、里親委託を続けることが子どもの利益といえるのか。

 「子どもの利益」というのは本当に難しい概念である。何が正しいのか、それを決めるのは誰なのか。現状の日本の児童福祉システムでは、児童相談所ということになっている。しかし、児童相談所の本務は、上記に書いたように保護者と相談を続けていくことにある。しかし、児童相談所の外からは、子どもの利益を判断する裁判所のような機関に映っているのかもしれない。その勘違いや錯覚が混乱を引き起こしている。

 児童相談所は、虐待対応の初期においては、虐待を発見する警察のような役割を期待され、援助決定については裁判所のように子どもの利益を判断する役割を期待され、保護者と相談関係を構築し、親子関係の再生を模索する相談援助の役割も期待される。現在児童相談所は本来なら三つの機関が担うべき役割を一手に担わせているような状況である。この過剰な期待こそが問題にされなくてはならないはずである。『夢がもてない』の主張は、児童相談所が裁判所のように判断できる機関であるという勘違いに基づいてなされているのではないだろうか。

 たとえば、アメリカは施設が少なくて、子どもたちは里親へ委託されることが多いと言われる。これは、裁判所がきちんと判断を下すというシステムがあるからである(原田[2008])。子どもの利益を決定する仕組み自体が違っているのである。『夢がもてない』も第三者機関の設置を提言しており、このテーマを前向きに改善しようとしていることは理解するが、現場職員の怠慢ということで現状を評価することはやはり間違っている。

 

6. 二項対立的思考からの脱却

 『夢がもてない』に代表とされるような里親推進言説は、その論理構造において、既存の社会的養護の施設をabuse(濫用)している。里親推進を論じるにあたり、乳児院児童養護施設との比較のなかで里親養育の優位性を主張しようとする。これは乳児院児童養護施設を用いて、自らの優位性を保持するロジックである。これは乳児院児童養護施設をabuse(濫用)していることにならないであろうか。里親委託それ自体の優位性を主張するべきであり、似てはいるけれども、比較する相手が間違っている。

 実務者の感覚からすれば、現状では乳児院も必要だし、児童養護施設も必要であるし、里親委託も必要である。子どもと家族にとって多様なメニューが必要なのである。施設か里親かという二項対立の発想自体が非常に貧困である。仮に、アメリカやイギリスのように里親委託が多くなったとしたら、その分里親との関係不調や里親からの虐待が増えることになるだろう。そして、やっぱりある程度の距離を保っている施設での養護の方がいいのではないかと揺り戻しが起こるだけだ。社会的養護の世界を豊かにするためには、選択肢が両方あるという道を選ぶべきである。

 社会的養護に関わる人は、社会全体からすれば、小さな領域である。NGONPO、民間企業が関心をもって、外とのつながりが生まれていることは大事なことである。そのときにどんな戦略をもって、自分たちの領域を見せていくのか。施設存置派対里親推進派という議論はあまりにも醜い。小さな領域で潰し合うのではなく、社会的養護の裾野を広げていく道を切り開いていくほうが生産的ではないだろうか。

 

おわりに

 批判というのは、相手の意見の有効性を見極めて、その意見を適切に位置づけることである。今回も『夢がもてない』というレポートが社会に発信されることによって、問題が広く知られることになったことの意義は否定しないし、社会的なインパクトがあったことは評価する。しかし、実務に対する精確な理解や分析がなかった。その点については批判しなくてはいけない。本論は『夢はもてない』の限界を指摘したと言えるだろう。

 児童相談所の実務者として、児童相談所の仕事が理解されていないことは残念なことである。現場についての精確な理解なくして改善もありえない。

 日本の児童虐待防止をめぐるシステムは整備され始めたばかりであり、足りないものばかりである。精確な現状認識を土台として、虐待という関係性に苦しむ親子やその援助者がエンパワメントされる建設的な議論を続けたい。本論がそのきっかけとなれば幸いである。

 

 

【参考文献】

  • 和泉広恵2006『里親とは何か−家族する時代の社会学』、勁草書房
  • 金井剛2009『福祉現場で役立つ 子どもと親の精神科』、明石書店
  • 島津あき2013「親と暮らせない子どもをめぐる状況」,website『SYNODOS』(http://synodos.jp) 04.9アップ
  • 週刊金曜日2014「施設の存続より子どもの利益優先を」、『週刊金曜日』7.25(1001号)
  • 庄司順一2013『フォスターケア−里親制度と里親養育』、明石書店
  • 慎泰俊2014「竹井善昭氏の「児童養護施設をいますぐ止めるべき理由」が一部ミスリーディングな件」、website『note』2014/10/28アップ
  • 園井ゆり2013『里親制度の家族社会学−養育家族の可能性』、ミネルヴァ書房
  • 竹井善昭2014「1人に1億以上かけて、ホームレスやワーキングプアを量産?『明日ママ』でも描けなかった、児童養護施設をいますぐ止めるべき理由」、website『DIAMOND online』第123回(2014/10/28アップ)
  • 原田綾子2008『「虐待大国」アメリカの苦闘』、ミネルヴァ書房
  • 林浩康他2015『国内外における養子縁組の現状と子どものウエルビーイングを考慮したその実践手続きのあり方に関する研究』、厚生労働科学研究費補助金行政政策研究分野201401018A
  • マシュー・コルトニ・マーガレット・ウィリアムズ2008『世界のフォスターケア−21の国と地域における里親制度』(庄司順一監訳)、明石書店
  • 矢満田篤二・萬屋育子2015『「赤ちゃん縁組」で虐待死をなくす』、光文社新書