攻撃とは防衛である。
久しぶりの更新となってしまいました。今日は書かねばいけない気がしています。この怒りをしっかり残しておくべきだと思いました。
とある組織とやりとりをしたのですが、その組織の規格に適応しない限りは門を跨がせないという、いわゆる「ゼロ・トレランス」を全面に打ち出してきました。
私がかかわっている子どもたちは、これまで成育歴のなかで「トレランス」(寛容)的に対応されたことがなく、親の都合に振り回され、暴力を受けてきた境遇のなかでなんとか生き残ってきた場合が圧倒的に多いのです。
そんな寛容という価値を内在化していない子どもたちに、「ゼロ・トレランス」を打ち出してもそれは明確な拒否もしくは排除にしか映らないのだろうと思いました。
「ゼロ・トレランス」は全体を管理するための方便なんだなと思いました。
一人の子どもの背景を見る余裕がない組織に対して、個別的なことを訴えても仕方のないことだと思ったので反撃はしませんでしたが、子どもたちが抱えてきた生き難さは分かってもらえず、むしろさらに自分をダメな人間として強化するのだろうと思いました。
この苦しみや生き難さに触れて抱えられることがなければ、人は安心できないでしょうし、不安が強まり、防衛のために反転攻撃をすることになるのだろうと思います。
翻って、その組織の方々も、現状を守ろうとして攻撃的になり、異分子を排除しようとするのかもしれません。みんな余裕を失っている結果が引き起こす負の連鎖でもあります。