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人は加害者であったり、被害者であったりするけれども、それでも生きていくわけだし、時にその当事者が交わってしまうこともあるかもしれない。
この物語はそんな可能性をきっちりと映像として表象してみせる。
真木よう子は明らかにショートカットになってからのほうが美しい。被害者という立場から、本当の自分の生(性)を生き始めたときに人は美しくなる。
この生の強度について第三者の立場で善し悪しは判断しても何も意味はない。そこにあるのは、生の強さのみである。
それは一見軽薄な週刊誌の記者が入ることによって、さらに増幅されていき、記者の生の強さが増幅していく。
被害者とか加害者というのは、一時的なレッテルでしかない。その後もそれぞれのレッテルを負った人は生きていくのだし、生きていかねばならない。それは決して平坦ではないけれども、それでも人は生きていくことの強さと美しさをこの映画は訴えていると思う。
大森立嗣という監督を真剣に追っていかねばならないと誓った。